2017-11-18

週一育休

題名のため本日の更新はお休みです。

2017-11-17

この世でもっとも孤独な場所

インターネットでは、今日も男女がお互いの欠点をあげつらって漫画化し、それをツイッターにアップロードして称賛されるという作法が流通している。あるいは匿名ブログに男女がお互いの悪口を書きつらねて掲載することがそれなりのページビューを獲得し、影響力を確保している。こうした事柄は数字には出ないが、わたしたちのこころを少しずつ毀損し、相互不信を蓄積させ、お互いの距離を果てしなく遠ざける。だがもうこれを止めることはできないし、止めるべきではない。一方、それによってなにが損ねられているか、それに形を与えておくことが必要だろう。むろん、損ねられているのは男女の繋がりであり、関係を持つことの大切さであり、理解への契機だ。

わたしたちはどんどん不幸になり、ますますひとりぼっちになり、しかも自らが望んでそうなっているのであり、この世の誰にもそれを止めることなどできない。

* * *

じゃがいもの皮を剝いている。ポテトサラダをつくっている。すでに塩ゆでしたブロッコリーが冷蔵庫の中にしまってある。剝いたじゃがいもを水に漬ける。それから出た生ゴミを処理し、シンクを洗い、コンロの汚れを拭きとり、洗った食器を拭いてから机に戻る。

机の前で、インターネットを眺めている。インターネットにあらわれる<社会>を眺めている。知的な人間たちが、インターネットはお遊びであり、真剣に考える必要などない、といっている。知的な人間たちが、インターネットに文章を書くのは時間の無駄だ、といっている。知的な人間たちが、インターネットは電話と同じで道具にすぎない、といっている。自分のことを知的だと思いたいひとびとが、今日も大量に生産されている。なぜそうか、と問うことはむなしい。なぜひとはひとに褒められたいのか、なぜひとは偉くなりたいのか、なぜひとは自分をより大きく見せたいのか、と問うこともむなしい。

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男女関係においては、相手を無条件に「信じる」ということが必要になる局面がある。
これを逆にいえば、相手を疑うことが、その関係性を決定的に損ねてしまうことがある。
そして関係というのものは、一度欠けてしまえば、もう二度と水を満たすことができない器と同じで、もうそこに愛情をためておくことはできなくなるのだ。

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不可能な関係を保たねばならない。いいかえればこころを守らねばならない。そのために必要なものは、ことばを取り戻すこと、「知的」で「わかりやすい」ことばではなく、誰にでも届くことば、しかも同時に、わかりやすさを拒否したことばを用いて語るほかない。すべての問題はことばの矛盾にたちかえる。ひとりぼっちで豊かな場所にたちかえる。

インターネットは、この世でもっとも孤独な場所、そして唯一の繋がりの可能性の場だ。

2017-11-16

無限に出会えるインターネット

だいたいわたしの知っている物書きは九割ぐらいが毎日死にたいと思っている。インターネットを見ていてもだいたい同じぐらいの比率だと感じる。冷たいことをいうようだが、それは自然なことなので、とくに何もしなくていいし、ほっておくのが一番だ。

つい最近、インターネットに弱音やくるしい生活を告白し、そうした気持ちを誰かにわかってもらいたいと思っていた女性たちが、それを悪意ある第三者に利用されて殺されるという事件があったばかりだが、このブログのような小さなアクセス数であっても、やはり同じような悩み相談メールがたまに届く。

この機会に、読者に注意喚起をしておきたいのだが、わたしがどんな人間かわからないのだから、そうしたことをしてはいけないし、そのメールの内容がどのように悪用されるかわからないのだから、個人情報など書くべきではないし、電話番号や住所を伝えようとしてはならない。

参考 → 「ネットで知りあったひとと会ってはいけない

わたしはそうした人々の気持ちがわかる。
わかるし、多くのひとが理解をもとめてさまよう現実のつらさも共感する。だが、2017年、それは悪用されるだけだとあらためて言わざるを得ない。

一方、読者はこう問うかもしれない。——それでは、ひとと付き合うことはできないではないか。弱音を吐いたらつけこまれ、自分の気持ちを伝える方法はなく、わかってもらうこともできないし、それを試みることも危険ということであれば……。

少し個人的な話をすると、性的な関係を持つことはさほど難しくはないし、結婚も実のところそうだが、ひととひととが出会う、ということはきわめて難しいというように思うし、その難しさにほんとうの意味で気がついたのは、30代に入ってからで、その理解の対価として婚姻生活を破綻させることになった。理解は無料では得られないのだ。

出会うことが昔よりもはるかに容易になったように見える反面、それがほとんど不可能になったと同時にいうこともできると感じている。その矛盾をわかりやすく説明することはできないし、する必要もないが、端的にいえばそれは「知らなくてもいいこと」を保つことが2017年には難しくなったからだろう。可視化はひとの心を不可逆的に損ねる。

ひとは、出会ってもいない相手と結婚もできるし、性的な関係を結ぶこともできる。
インターネットでひとは無限に出会える。だが誰とも出会えない。

2017-11-15

無題(承前18)

通常業務。自分が書いているものについていろいろ広報や宣伝をしなければならない立場なのだがやる気が出ない。というよりはっきりいうとインターネットでもそれ以外でもそういうことは一番嫌いで、うんざりで、その気持ちを忘れずにいたいと思う。自分のつくったものを読んでほしいと喧伝してまわる行為が楽しいはずがなく、苦痛でしかない。やる気が出るまでいっさい何もしないでおこう、とこころに決める。

2017-11-14

体験すること

通常業務。そういえば先日携帯ショップに足を運んだが、最近発売されたiPhone Xの円みを帯びたエッジは、昔持っていたiPhone 3Gを思い出させてとても欲しくなった。新しくおもしろいものが発売された時、それに否定的なことを並べ立てて買わないひとよりも、経済的に損をするかもしれないとわかっていながらも、やっぱり買ってしまうひとのほうがわたしは好きだ。損得ではなく、買い物は楽しいものであって、買うということはそれ自体が一種の遊びなのだから。

韓国の仁川に短期滞在していたころ、よく市場にいった。海産物や豚の内臓が並ぶ市場は行くだけで楽しい。通販のような利便性の高さとは違う、歩くこと、見ること、選ぶことの楽しさがそこにある。「体験」の楽しさといったらよいか。それはいくら科学技術が進歩しても代替できるものではない。自分の足を運んでみたものが、一番記憶に残るものであり、そのかけがえのない記憶を得ることがいちばんの買い物の目的なのだ。

それはともあれ、わたしは職務が終わった後、一キロある煮干しのワタを一時間かけて取った。これになんと総計三時間もかかった。苦行というほかない。だがジップロックで密閉したこの煮干しのおかげで、半年は美味なものが食べられそうだ。こうした苦労は好きだ。見返りがあるとわかっている。作業を終えて机に戻り、ブログを書いて眠る。

2017-11-13

無題(承前17)

なにをどこで書いても退屈だ。

2017-11-12

煮干しの日曜、後になって知るものたち

煮干し、を定期的に大量にもらっている。ほとんど出汁にして使っているのだが、料理をするみなさんは頭とワタは取る派だろうか、それとも取らない派だろうか。わたしは頭は残す、ワタは取る派だ。つまりどういうことかというと、何百匹もある煮干しの頭をちぎり、ワタを指でひとつひとつ取る、という作業が数ヶ月に一回は発生する。今日はそんな日だった。

2017-11-11

週一休暇

本日の更新はお休みします。

2017-11-10

捨て去ることのできないもの

ようやく今日で今週も終わり。定期検診で歯医者にいって、その足で先日転んだ時にどこかがおかしくなった自転車の調子を調べてもらいにいった。調べてもらうと、なんとフレームそのものが歪んでいるとのこと。わたしがたいした怪我をしなかったのは、フレームが曲がって衝撃を吸収してくれたからだということがわかった。自動車では事故があった時にわざとゆがむ部分を残しておくことで衝撃を吸収する、という考え方があるらしいが、わたしの場合は偶然だろう。ほとんど怪我をしないで幸運だった。手を痛めると、料理もできないし、家事もできないし、さらに職務にも差し障りが出てしまう。もちろんブログを書くのも難しくなる。

ニュースでは、自殺をしたがる若い女を優しいことばで騙して家に連れ込み連続して殺していた男の事件を毎日報道している。「わかってもらえた」と思ったとき、ひとはころりと騙されてしまう。あるいは「このひとはわたしの傷をわかっている」と思ったとき、ひとは相手のことを信じてしまう。インターネットはひとのこころを近づけることができる反面、悪意をもってつかえばはてしなく悪いことができる道具でもある。ひとこといえるのは、男でも女でも「わかってもらいたい」という強い欲望を持っており、ひとはこの欲望を捨て去ることはできないのだということ、そしてその捨て去ることができないもののとてつもない強度について、あらかじめ知っておくことが必要だということだ。

だがだれにもわかってもらうことなどできない。
ひとは不可能をもとめる。会えない誰かをずっと探すしかないのだ。

2017-11-09

無題(承前16)

ようやく週末が近づく。少し寒さが強くなり、上着を一枚増やした。といっても職務の内容が変わるわけではなく、いつもの日常を過ごした。