2017-05-28

電車で見かけた子供

比較的暑い一日だった。東京都内で一般の会合があったので参加した。

東京へ向かう電車の中でスマートフォンを操作していると、隣に座って旧型の端末を使っていた子供が、ものすごくうらやましそうな顔をして、わたしの手元をじっと見ていた。はっきりその子の顔を見たわけではないが、その視線が突き刺さるようで、なんだかかわいそうになって、スマートフォンをポケットに戻した。すると今度は残念な気配が伝わってくる。子供を横目でみると、ふたたびさきほどの端末をいじり始めた。それでなにをしているのだろうと様子を伺ってみると、アドレス帳を開いたり、閉じたりする操作をしているだけだった。たぶん、親に持たされてはいるが、高額のパケット料金など払いたくないため、利用制限がかけられているのだろう。まずますかわいそうになった。

やがて、子供はどこかの駅でガラケーを握りしめておりていった。大人になったら、好きなものを自分で選んで買うことができる。だが、子供の頃《得られなかったもの》は二度と手に入らない。そう思って、窓の外をみる。子供の姿はとっくの昔にみえなくなっていた。

2017-05-27

おじさんブログのつくりかた

今日は晴れ。とくに特筆すべきことはなかった。明日は都内で会合があるためその準備で忙しくしている。これまでの作品をまとめたり、雑誌をひとに送ったり、紹介状を依頼したりとか、そういうことだ。結局この社会はコネと根回し(あるいは飲み会)がすべてで、つまりその両方がない人間は死ぬ仕組みになっている。なければつくるしかないし、あるいは、圧倒的なものをつくるほかない、ということでもある。

お金も社会的地位もなく、ひとがうらやむようなものをなにひとつもっていないわたしのような人間に書くべきことは特にない。せいぜい美味いものをつくって食べるぐらいだ。いつも常備しているのは煮干し出汁のみそ汁で、出汁は数日に一度大量につくって利用の際に火をいれる。衛生にはわりと注意しており、ほぼ毎日なにかしら作っているが、食あたりの経験はない。台所と調理器具の清掃もまめに行う。これは兼業主夫としては自慢できるポイントかもしれない。

ブログのアクセスログを見ていると、カリフォルニアに在住の米国人主婦らしきひとのブログがあった。Bloggerシステム上では横にリンクする仕組みがあるようでたまに奇妙な国からアクセスがある。そのブログには生活の様子がつづられていて、あらためてインターネット、いやブログはいいものだな、と思わされた。ある程度まとまった分量の日記的文体、写真によって描かれる普段の生活の一シーンは、それぞれのエントリに俳句的なおもむきを与える。それはフェイスブックにもツイッターにもないものだ。

そう思いながら冷蔵庫の前で今晩の献立を考える。餃子を皮からつくるのは満足度の高い趣味だが、粉が大量に飛び散るため育児中にはおすすめできない。冷蔵庫には安物の出来合いの餃子がはいっている。片栗粉をすこし溶いた水をいれて蒸し焼きにして最後強火にすると皮付き餃子ができる。この餃子はどこで作られたのだろうかと思う。日本ではないかもしれない。まさか米国ではないだろうが。そういえば主婦のブログにはプロフィール写真が貼られていて、いい笑顔だった。みな、さみしいのだろうか、と思う。ネットではみながつながりを求めている。だがそれを得ることはけしてできないのだ。


参考記事:
おじさんになりきってLINEをする『おじさんLINEごっこ』が大流行」(Naverまとめ)
おじさんLINEごっこが女子に流行中。そのキモい特徴とは」(女子SPA!)

2017-05-26

いま夜がはじまる

昼間は雨がふった。すっかりトレードマークと化した白い髪を維持するために美容院にゆき、帰り道に暇そうな顔をした老人がたくさんいるマートでいろいろな食材を買込んで家に戻ると、妻と娘は眠っていた。ベランダには透明な雨が溜まり、そこに夕暮れの光が落ちている。

しずかに机の前に戻って、海外からのメールに対応し、ニュースを眺める。前文部科学事務次官がいわゆる「出会い系バー」なるものに通っていたという報道をよむ。歌舞伎町にそんなバーあったっけ……と思ったが、おそらく登録料と引替えに入ることができる会員制クラブのようなものだろう。男ならだれでも同意すると思うが、服を着た女も、服を脱いだ女もこの世でもっとも尊いものであり、新しい出会いをもとめるのは自然なことだ。だが普通は妻を(大事に思っている場合は)傷つけたくないから我慢する。前に書いたように、むしろ傷つけたい場合は、家庭外にそれをもとめるということになるだろう。

社会的地位がある人物による下半身事案は枚挙にいとまがなく、二十四時間ありとあらゆる場所で社会的規範から犯罪とみなされる行為が繰り返されている。だれしもが下半身に支配されており、下半身の衝動を抑えることができない。できると誤解している人間もたくさんいるが、「できない」と理解した上でそれとあらがうこと/あらがいつづけることも重要だ。ひとの意思の力は弱く、衝動は我慢できず、誘惑にたやすくやられてしまう。そういう前提にたった上で、「できないこと」への無限に遠い距離を縮める努力も必要だ。わたしはその不可能な歩みにこそ人間らしさがあらわれると思う。

下半身が衰えた老人にはそのような衝動はない。だがそれは人間らしさをかくとくしたのではない。ただ性器が弱って衰えたから暴力性を愉しむことができなくなっただけだ。人間らしさとは、下半身起因の衝動とあらがい、これとたたかうことを決めた者にのみひらかれた《契機》なのだ。

だれの上にもいま夜がはじまる。孤立と分断の時代を、人間らしく生きてゆこう。