2014-01-12

男たちの不可能な友情

眼の前に裸で横たわる女の足の間、ゆるく開いた膣口と閉じた肛門を想像してみよう。二本の指をそれぞれ差し入れてみる――その際指の爪はあらかじめ手入れしヤスリがけをしておくことが望ましい――そしてその二本の指を交互に動かしてみる。驚くべきなのは、膣内と直腸がわずか一センチにも満たない薄い壁で隔てられていることである。指同士をこすりあわせれば、けして通り抜けることのできぬ壁のあちら側に、もう一本の指の存在を確かに感じることができる。男たちが自分たちの友情を確かめ合う道具として女の膣と肛門を用いるとき、それは二穴姦double penetrationと呼ばれるが、男たちの陰茎はこのけして通り抜けることのできない薄い壁を隔てて擦り合わされる。男たちを興奮させるのは女そのものではなく、もどかしいその刺激によってなお一層高まる一体感である。これを<友情>と仮に呼ぶ。

集団強姦や強盗等の疑いで逮捕された杉本祐太の事件は、それ自体特にめずらしくもない日本の地方の一シーンに過ぎなかったが、その逃走劇は多くのひとびとの注目を集めた。なぜなら留置所から脱走した容疑者は、明らかに複数の「仲間」たちとの協力を経て、まるまる一日のあいだ追いすがる警察からさらに逃げ続けることに成功したからである。さしあたって注目すべき点は、きわめて困難な全国指名手配網を潜りぬけようと画策する男たちの<友情>は、まさにそれが困難であり実現不可能であるがためになお一層高まったに違いないということだ。さらに想像が許されるならばスクーターに二人乗りして逃走する男たちの身体は密着し汗ばみ、やがて訪れる逮捕という確定した運命を間に挟んだまま、風にこすられながら快楽を得る勃起した鋼鉄の性器となって疾走したのである。

しかし射精の時はやってくる。性器が萎えた時その<友情>は終了する。逃走劇はあっけなく終了し、一人ぼっちになった杉本祐太は女性器に生えた陰毛のような林の中に隠れ潜むが、やがては発見され川に落ち全身を水に濡らしながら拘束される。2003年の韓国映画「シルミド」には厳しい訓練に嫌気がさした工作員部隊の男二名が、施設を抜けだして近くの民家に住む女性を輪姦するシーンがきわめて牧歌的なタッチで描かれる。そこにあるのは地獄をくぐりぬけた男たちが一人の女を道具として用いて精神的な連帯を取り戻すうつくしさだ。そして用済みになった女はベッドから投げ捨てられ、男たちは厳しい訓練で失いかけた人間らしい笑顔を一瞬だが取り戻す。だがしかしその時指導兵たちが民家を取り囲み一人は自殺、もう一人は仲間の手によって撲殺される。性器の硬さと<友情>は長続きしないことが示唆される。

男たちの<友情>を成立させるためにはそれを隔てる薄い壁としての女が必要である。実際にふれあってしまえばそれは禁忌に触れてしまう。遠すぎず近すぎない距離がなければならない。友情をはらむためには女という避妊具が必要だ。しかし「集団強姦する人は、まだ元気があるからいい」(太田誠一)というきわめて正直な見解が1945年生まれの政治家から発せられる日本社会において、誰もが杉本祐太のような元気を持ち得ないことは自明だというしかない。もちろん太田は男たちに「元気」があった時代、困難に直面した男たちが触れ合うことなく共に戦い快楽を得るその行為の中毒性を念頭において発言したのである。戦争を知る世代の男に対する理解の水準は、敗戦後すぐに米軍向けの慰安婦施設が自発的に設置されたことからも伺い知れる。かれらは男に必要なものとは何か誰よりもよく知っていた。

一組の男が女の肉体を自慰の道具として使うこと。これが<友情>の成立する条件だ。私たちはこの止むに止まれぬ切実な必要性がいま何をもたらしているか知っている。ネットのあらゆる場所で閲覧可能な陵辱、強姦、暴行、そして全国のコンビニエンスストアのほぼすべてで販売されるファンタジーとしての性暴力表現。それはほんらい男たちが使えるはずだった避妊具としての女の代用品である。ひとつの表現された架空の女の穴のイメージ(「俺たちの嫁」)に向けて自慰をし射精する姿は、かれらが共有しているはずだった女を自由に道具として行使できる権利があらかじめ奪われている現実を示唆している。失われてしまった<友情>の契機をいまひとたび得るために、代用品としての集団的自慰行為が励行される。ディスプレイの女たちに触れることはできないが共に自慰をすることはなお可能である。膣も肛門も顔もないのっぺりとした女がそこにいる。実在しない女は強姦できない。かくして<友情>は不可能である。

(2014年1月11日 根本正午)