2016-03-09

イエのない社会

考えてみよう。私たちが「日本を取り戻し」た世界。私たちの国が「うつくしく」なった世界。私たちはいまよりも幸せだろうか。私たちはいまよりも恵まれているだろうか。私たちはいまよりも許されているだろうか。いや、違う。私たちは、私たちの孤独をどうにもできないのだ。

また、雪が降っている。ここしばらく、東京と地方を往復する生活が続いている。電車に乗っているスーツを着た人々の顔を見て、昔、会社勤めをしていたころのことを思いだす。私には正社員勤務の経験はないが、一年単位で契約更新される専門職として、外注される業務を請け負う形で、とある大手企業に十年ほどいた。それは都心部にある大きなガラス張りのビルで、東京に行くと、その時のことが車窓のむこうによみがえる。

その会社は、仮にI社としておくが、悪い会社ではなかった。同じ部署にいる同僚たちは親切だったし、基本的に善意をもって人に接していた。それはいま考えれば、最近しばしば話題になるブラック企業とは対照的な、財務的に健全で、世界的にも高い評価を受けている自らの事業に対する自信の裏返しでもあったのだろう。人間は、困窮すればするほど、負の感情を制御することが難しくなる。かれらは、外部業者である私に対しても敬意をもって接してくれていたと思う。

だが、つねに疎外感は感じていた。それは会社員同士であれば敬称なしで名字で呼びあう慣習、「入社同期」の社員たちの間にある強い絆、家族ぐるみのつきあいがごく普通である社風などにあった。この空気を外国の人間、あるいは会社勤めしていない人間に説明することは難しい。見えない絆、といったらよいか。それはほとんど家族のそれであり、ブラザーフッドだった。正社員によって構成される日本の会社は、疑似的なイエなのだ、ということを、私はその時考えた。そこに入れないものは「さん」づけで呼ばれるよそ者に過ぎないわけだ。

私の祖父はよく「会社勤めをしろ」と言っていたが、それはつまり、自らが所属するイエを持て、ブラザーフッドに参加せよ、という意味だったといま思う。なぜならそうしなければ、この社会では永遠に所属するべき場所を持たないよそ者であり、部外者でありつづけることになる。「正社員」とは、単に福利厚生や身分の安定性だけを提供している立場ではない。それは小さな共同体へ参加するためのパスであり、だからこそ、入社試験はあれほど厳しく、入った後は軽々しく首にはできない仕組みが保たれなければならないのだ。なぜなら家族の一員となったものを、簡単に切り捨てるようなイエは、イエとしての体面や尊厳を保てないからだ。

そう考えた時、私たちの多くが抱える「孤独」が増大した/している理由が少し見えてくる。それはバブル崩壊後、企業を守るために非正規雇用を増やしていった国の政策と一致し、社会的情勢によってイエに参加できなかった若者と、その中で歳をとった中高年者が、どこにも所属意識を持てないまま、みずからの寄る辺をもとめてネットをさまよう現実が見えてくる。そして所属するイエをもてないこと、部外者であることは、じつは、人間にとって、とてもつらいことなのだ。なければ、死を選んだほうがましだと思うほどに。

私は幸運にも、職人としての道を選び、ほぼ一人で生活している。上記のような共同体には参加こそしていないが、職人集団の末端として、職務に誇りを持っている。だが、それでも、所属がないということはつらいものだ。つい先日、とある会合で団塊世代の元会社員と話す機会があったが、いまの若い世代の苦しさについて、何もわからないという印象を受けた(そして、とてもいい人だった)。そして、それは普通のことだ。イエに所属しているものには、それが提供しているアイデンティティのありがたさがけしてわからないのだから。

この社会を眺め渡してみて、この孤独をなんとか解決しようとする同年代の試みがすでになされているように感じる。それはたとえばお金がないまま田舎に移住する若者たちだったり、ゆるいつながりを毎日確かめあう家族の代替品としてのSNSであったり、こうした孤独を忘れるための祭りとしての即売会だったり、あるいは「いつでも祭り」のニコニコ動画だったりするのだろう。だが残念なことに、会社というイエが高度成長期に提供していた代替品にはなりえないようだ。

私は以前、景気が回復しても、私たちのつらさは消えてなくならない、と書いた。政権与党の人々は政治家であり、ひとの心については鈍感きわまりない。と、いうよりも、鈍感でなければ政治などという過酷な職業は続けられないのだろう。だからかれらが「取り戻す」日本は、なにが悪いのかわからず、何がつらいのかわからず、何がひとびとにとって良いことなのかわからず、よって経済の物差しでしかものを考えられない人々が思いついた日本ということになり、さらにいえば、かれらが目指す「うつくしい国」は、上っ面だけを取り繕ったまがい物、という結論が導き出される。

正直、どうしたらよいかはわからない。自分がどうしたら幸せになれるのか。それはわかる。だがほかの人々がどうすべきなのか。この社会をどうしたらよいのか。それは私の手にあまる課題のように感じられる(ので、私は政権与党の人間にも一定の敬意を払う)。だから、私にできることをしようと思う。私にとってそのひとつは、こうしたブログで、私たち世代の人間、現代に顕著なつらさやくるしみにかたちをあたえ、その原因について考えることだと思える。

イエがないことはつらいことだ。家族として見なされないまま会社に勤めるのもつらいことだ。そしてそのつらさは経験したことのないひとにはわからないものなのだ。そうした何百万、何千万もの孤独が、この社会に充満している。私たちは解決できない問題と向き合っている。どうしたらよいか。わからない。わからないが、私はこの国の目に見えない良識と底力、つまりネットには可視化されることのない善意や知性の存在を信じて、こうしたことを記してゆこうと思う。

(2016年2月25日)